なぜ人はハゲるのか?光り輝くスーパースター、山下大輔さん。

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ハゲは、嫌いではありません。

私は、子供の頃から野球が好きで、もともとは生粋の横浜DeNAベイスターズファン。
私が小さい頃には、できたばかりの横浜スタジアムを本拠地に大洋球団が再スタートした「横浜大洋ホエールズ」でした。

大洋ファンのくせに生意気だ

当時のホエールズは、万年Bクラスで、子ども心にも情けないぐらい弱かったのです。
連日負けたニュースばっかりで、「よし、なら応援に行こう!」と球場に足を運んでも、必ず負けてしまいます。

そんなわけですから、周りに大洋ファンなんてほとんどいませんでした。

最近は昔よりだいぶ増えていますが、大洋ファンって、当時はだいたいクラスにひとりくらいなものです。

「ドラえもん」に出てくるジャイアンとスネ夫は、よく「のび太のくせに生意気だ」などと言いますが、私はクラスの友達から「大洋ファンのくせに」なんて言われていました。

「なんで、こんなに弱いチームのファンになっちゃったんだろう」
よくそんな風におもったものです。

だから私の小さい頃の夢は、プロ野球の選手。
それも、大洋の選手になることでした。

「自分が大洋の選手になって、チームを強くするんだ!」と思っていたのです。
今考えれば健気なものです。

話が遠回りしている印象があるかもしれませんが、私が子どものときに憧れていた選手は、山下大輔選手です。

子ども時代の私が、なぜ大洋を好きになった理由

それは、一にも二にも、山下選手ありきでした。

私の出身地は、横浜ではなく静岡県清水市(現在は静岡市清水区)なのですが、実は山下選手も同じ清水市の出身だったのです。

小学校の担任が、たまたま彼と同級生でした。
しかも、当時、大洋球団は静岡で春のキャンプを張っていたので、放課後、その練習を見に行ったりして、すっかり山下さんのファンになったというわけです。

山下さんは、慶応大学の野球部で大活躍して、1974年に期待のプリンスとして大洋に入団した名選手です。
私が物心ついたときには、もう球団の顔としてショートの定位置で活躍していました。

担任は私たちを諭すとき、よく山下選手をダシに使ったものです。

「彼は野球がうまいだけじゃなくて、勉強もよくできたんだ。君たちも、外で遊んでばかりいないで、勉強もしなさい!」といったふうに。

自分のハゲ頭をギャグにして滑るギャグを連発する大物

山下選手の優れた頭。
それは、とくに子ども心に印象的でした。

そう、彼こそは、まさに「光り輝くスーパースター」だったのです。

山下選手は1988年、私が10代の頃に現役を引退しましたが、当時から頭髪が薄く、帽子を取った時の雄姿には、まさに後光が差していました。

しかし、山下選手はクレバーにして豪放磊落。
自分のハゲ頭をギャグにしてのけ、まさに「滑るギャグ」を連発してくれる大物でもありました

2003年に横浜の監督に就任した際には、キャンプで集まった選手たちに、こう訓示したと言われています。

「みんな、僕の頭のようになってほしい。ケガなく、明るく、輝いてほしい!」

とはいえ山下選手も、現でき時代は自分の頭を相当気にしていたようです。

当時のプロ野球には、バッターが塁に出たらヘルメットを脱いでいいというルールがありました。

そのためバッターはユニフォームのポケットに帽子をしまい、塁に出るとヘルメットを取って、しまっていた帽子をかぶるようにしていたのです。

ところが当時の山下選手は、打席に立つ際に、帽子の上にヘルメットをかぶり直さなくてもいいよう、工夫していました。

それを見た当時の自分は、子ども心ながらに、「やっぱり頭を見られたくないんだな」と思いました。
それと同時に、自分も野球選手になってハゲた場合、山下選手のように、帽子の上にヘルメットをかぶろうと思ったものでした。

山下監督の苦戦の頃、私の頭髪も苦戦に

さて、まさに「生え抜き」の監督として期待された山下さんでしたが、2年間の監督時代は、戦力に恵まれず、自らのニックネーム(大ちゃん)に引っかけた「大チャンス打線」というネーミングも見事に滑って、2年連続の最下位に沈んでしまいました。

そして、山下さんが苦戦を続ける一方、私自身も、そろそろ髪のことが気になり始めていました。

光り輝くスーパースターへの憧れから始まり、何の因果か、自分の髪を心配するはめに。

そして現在、子どもの頃には思ってもいなかった育毛をサポートする会社の経営者へ。

これが「ハゲつながりの私の前半生」のあらましです。

思えば子どもの頃って、夢も、髪の毛もたっぷりありましたね。

私は、先ほども触れたように「将来はプロ野球の選手になって、大洋の救世主たらん」と切望していました。

「ドラフトで巨人が指名してきたって、俺は行ってやらない。狂人なんて、俺が行かなくてもじゅうぶん強いじゃないか。」

そんなふうに本気で考えていました。
子どもって、現実を知らないから、ものすごいことを考えますよね。

なぜそんな夢を抱いたかというと、きっと悔しさがあったのだろうと思います。

大洋を応援しに行くと、私設応援団の人たちがいます。
いつも同じ顔ぶれですから、そのうち何人かの人と親しくなります。

すると、われらがチームはたいてい負けますから、仕事の合間を縫って駆けつけてくる大人の人たちが、いつも悲しい顔をして帰っていくのです。

おじさんたちが、試合のあとに「テッちゃん、いつか強くなるからな!」と私を励ましてくれるのを、逆に子どもながら「かわいそうだなあ」なんて思っていました。

テッちゃんというのは、私のこと。
杉山哲矢という名前だから、親しくしていただいている先輩に、今もそう呼ばれることが多いのです。

それはともかく、横浜大洋は、オジさんたちが「いつか強くなる」と言っても、いつまでたっても強くならないのですね、これが。

だから「将来、自分がオジさんたちを喜ばせてやろう」と誓ったわけです。

ハゲ遺伝説に戦々恐々だった青春時代。野球を辞めたわけ。

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